ヤル気を出させて「続ける」コツは、脳をだますこと。
やる気の秘密は脳の「淡蒼球」にあり、この球が活性化しているときがやる気が出ている状態。
でも、淡蒼球は自分の意識では動かせない、無意識の部分にある…
だから周りを巻き込んで騙すしかない!そのためのスイッチが4つ!!というのが、本書を通しての主張です。
スイッチの4つは…
スイッチB:Body(体を動かす)
スイッチE:Experience(いつもと違うことをする)
スイッチR:Reward(ごほうびを与える)
スイッチI:Ideomotor(なりきる)
仕事をしていると、たまに謎ワードを聞くことがある。「登場感が欲しい」とか。これはかなり謎だ。わかるようで、わからない。登場感、何となくわかるような気がするが、じゃあそれを作るためには何が必要なのかと考え始めると苦しい。これに限らず、ナントカ感、とつくような言葉がある。スピード感、緊張感、劣等感・・・「感」がつくことによって、どういう変化があるのだろう。
女性が言う、もてる男の条件に「清潔感」というものがある。これは清潔とは違う。単に風呂に入り、歯磨きをしてもだめだ。清潔感にはおそらく二つ条件がある。ひとつは、「手入れをしていることがうかがえる感じ」。無精ヒゲとか、衣服のしわ等がマイナス要因になる。無造作ヘアというのは、ぼさぼさ髪と紙一重だけれど、手入れをしている感じがうかがえればOKだ。もう一つは、「健康であることの表示」。適度な日焼けや、吹き出物などがない肌というのがポイントになる。これらは正直、清潔さとはほとんど関係がない。でも、清潔感とは深い関係がある。
あるウェブサイトを見ているとき、感心したことがある。スピードを表現しているのだけれど、サイトが非常に軽い。大画面の映像で、スピーディーな表現をやろうとすると、たいてい重たいサイトになってしまう。しかし、このサイトではスピード感を表現していた。よく見ると、表示はコマ送りでしかないのだが、一つ一つのコマは静止画ではなく、動いている残像のコマなのだ。コマ送りでしかなくとも、残像が入っていることによって、人間はスピード感を感じることができる。スピードではない、スピード感の表現。
もっと抽象的に、自由と自由感の違いというものもありそうだ。自由というのは、何にも妨げられないで主体的に振る舞えることだと言える。では、何もない画用紙に、好きに自分を表現する、というのは自由だろうか。客観的には自由かもしれないが、頼りどころがない。子供だったら、塗り絵の枠線が書かれている方が自由だろう。Twitterは、好きにつぶやけと言う。そのとき、140字の文字制限がある。好きにつぶやけというのは不安を感じさせるけれど、140字の限定は自由感をもたらす。あるサイズの限定は自由ではないかもしれないけれど、自由感を生む。
バックパックを背負って海外に出かけていたころ、マレーシアのなんだかわからない街に泊まったことがある。長距離鉄道に乗っていて、たまたまそこで降りただけ。観光地でもなく、日本人も見あたらない。そんな街に、ほとんど誰も泊まっていない宿があった。一泊、百円くらいだったその宿には、窓にガラスはなく、シャワーも水しかでない。じゅうたんもなく、布らしきものはベッドの上にしかない。備品と呼べるものは灰皿くらいで、この灰皿だって何かの食品の缶詰が置いてあるだけで、ほかには豆電球が部屋に一つ。そんな宿だったが、気持ちは非常に自由だった。こんな状況で感じる自由は、自由というより自由感だろう。
「感」がつくとき、その概念は人間のカタチになっている。わかるようでわからないこの「ナントカ感」を把握することが、表現やコミュニケーションにおけるコツなのかもしれない。
確かに、いま時代の流れとして、家電全般がエコロジーを考えるようになっているのは間違いない。しかし食洗機に関しては、また別の理由があると思う。
食洗機というものが「ぜいたく品」、「使う人を怠けさせる製品」と思われがちな商品だからだ。導入するにあたって気が引け、一種の罪悪感をのりこえなければいけないらしいのだ。
気がつけば自分自身「私は食洗機は欲しくなかったんだけど、夫が」などとアリバイ的なことを言ってしまっているではないか。
以前、洗わないで炊ける「無洗米」が出てきた時のことが思い出される。これもまた単に「洗わないでいいし、おいしいですよ」という売り方ではなかった。
「無洗米は、とぎ水をセーブし、流し水を汚しません」とエコなアピールがされていたのだ。やはり、楽することに何らかの罪悪視があったのだと思われる。
こういうことは今に始まったことではない。
お米つながりだと、電気炊飯器が開発されたとき「お前は、自分のカカアが機械で飯を炊いて楽するのが平気なのか」という批判が出たという。有名な話だ。
世の中には、「家庭の仕事が楽になる」ことに意味もなく嫌悪を抱く人というのが、いつでも一定の数だけいるようなのだ。
コラム:但見裕子の「家電買っちゃいました」ナショナル 食器洗い乾燥機「NP-BM1」
食洗機購入から、いろいろなことが見えてくる。面白い
(via suchi) (via rpm99) (via takeori) (via sanmorishi)
うちは食洗機ない。かみさんは欲しがってるけど。子供に見せなきゃね。食器洗うところ。で、油物はこっちによけといて。みたいな。水につけておくんだよ。とか。
(via officek3)
(via mitaimon)
(via bait)
引用を理解して書いてるのだろうか……
「うちは炊飯器ない。かみさんは欲しがってるけど。子供に見せなきゃね。ご飯を炊くところ。で、はじめはチョロチョロ、ふた取っちゃだめだよ、とか」
「うちはガスは使ってない。かみさんは欲しがってるけど。子供に見せなきゃね。火をおこすところ。で、新聞一枚からおこす方法、上手く風がまわるように薪をくむんだよ、とか」
とはいえ、子育ての時、どこまで便利さを許容すべきか、というのは悩むところ。私が子どものころは鉛筆削り、ナイフ、シャープペンシル、電卓、インスタント食品、電話(携帯じゃなくて)、あたりがターゲットでした。枕草子にも、最近の若い者は道具に頼って手抜きをしていかん、みたいなこと書いてあったし、世代間ギャップテーマとしては定番でしょうか。
まあ、枕草子は嘘だけど。
(via suchi) (via yuco) (via oosawatechnica)
(via okotoba)
via interartive.org
ああっ・・・駄目だっ!
身体が、勝手に・・・
ファンファンウィーヒッタステーッステー